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金子みすヾ/本名金子テル。(写真は大正12年5月3日撮影) |
(以下の文章中に引用されている詩の出典は『金子みすゞ全集』(JULA出版局)です。なお、詩は、金子みすゞ著作保存会の了解を得て掲載しています。転載する場合は、金子みすゞ著作保存会の許可を得てください。なお、次のサイトや文献も参考にさせていただきました)
金子みすヾの世界(山口県長門市の「金子みすヾ」公式サイト)
「童謡詩人金子みすヾの生涯」(矢崎節夫著 JULA出版)
「みすゞコスモス」(矢崎節夫著 JULA出版)
山口県長門市仙崎と言えば、江戸時代に日本でも有数の捕鯨基地として栄えた港町だった。記録によると、1845年から1850年までの6年間で78頭もの鯨が捕れたという。
ところでこの町の寺(向岸寺)には1692年から明治年間まで、捕獲した鯨に人間と同じように法名をつけた鯨の過去帳が残されている。さらに、捕獲した鯨が胎児をもっていたときは、これらを埋葬して建てた鯨基が今も残っているという。
こうした鯨基は全国に50基を数えるという。しかし、七十数頭もの鯨の胎児を埋葬したところは仙崎より他にないそうだ。しかも、仙崎では今も絶えることなく、鯨法会が行われている。もともと信仰のあつい土地柄だったのだろう。
詩人の金子みすヾは明治36年、この仙崎村に生まれている。彼女は大正末期にいくつかの詩を発表し、西條八十に『若き童謡詩人の巨星』とまで称賛されながら、26歳の若さで世を去った。彼女に「鯨法会」という美しい詩があるので、引用しておこう。
鯨法会は春のくれ、
海にとびうおとれるころ。
はまのお寺が鳴るかねが、
ゆれて水面(みのも)をわたるとき、
村のりょうしがはおり着て、
はまのお寺へいそぐとき、
おきでくじらの子がひとり、
その鳴るかねをききながら、
死んだ父さま、母さまを、
こいし、こいしとないてます。
海のおもてを、かねの音は、
海のどこまで、ひびくやら。
金子みすヾという童謡詩人を知ったのは、数年前のことだ。書店でふと彼女の詩集を手にして、思わず次の詩に釘付けになった。
つもった雪
上の雪
さむかろな。
つめたい月がさしていて。
下の雪
重かろな。
何百人ものせていて。
中の雪
さみしかろな。
空も地面(じべた)もみえないで。
日の光
おてんと様のお使いが
そろって空をたちました。
みちで出会ったみなみ風、
(何しに、どこへ。)とききました。
ひとりは答えていいました。
(この「明るさ」を地にまくの、
みんながお仕事できるよう。)
ひとりはさもさもうれしそう。
(わたしはお花をさかせるの、
世界をたのしくするために。)
ひとりはやさしく、おとなしく、
(わたしはきよいたましいの、
のぼるそり橋かけるのよ。)
のこったひとりはさみしそう。
(わたしは「かげ」をつくるため、
やっぱり一しょにまいります。)
何という、やさしくて、さびしい詩だろう。(わたしは「かげ」をつくるため、やっぱり一しょにまいります。)に、私は心を引かれた。そして、彼女こそ本物の詩人だと思った。
金子テルが本屋の店番をしながら、「みすヾ」というペンネームで詩を書き始めたのは、大正12年(1923年)20歳の頃だという。そして、「童話」「婦人倶楽部」「婦人画報」「金の星」の4誌に投稿したところ、なんと全部に採用された。その感激を、みすヾは「童話」の通信欄に次のように書いている。
「童謡と申すものをつくり始めましてから一ヶ月、おずおずと出しましたもの。落選と思い決めてそれを明らかにするのがいやさに、あぶなく雑誌を見ないで過ごすところでした。嬉しいのを通り越して泣きたくなりました。ほんとうにありがとうございました。下関市、金子みすヾ」(「童話」大正12年11月号)
「金の星」の選者は野口雨情だが、残りの雑誌の選者は、西条八十だった。みすヾは西条八十にあこがれていた。それだけに、彼に認められた喜びは大きかった。「童話」に載った「お魚」という詩を紹介しよう。
お魚
海の魚はかはいそう
お米は人に作られる、
牛は牧場で飼はれてる、
鯉もお池で麩を貰ふ。
けれども海のお魚は
なんにも世話にならないし
いたづら一つしないのに
かうして私に食べられる。
ほんとに魚はかはいさう。
処女作はすべてを語ると言うが、金子みすヾのこの作に、この言葉はぴったり当てはまる。選者の西条の評を引いておこう。
「大人の作では金子さんの『お魚』と『打ち出の小槌』に心を惹かれた。言葉や調子の扱い方にはずいぶん不満の点があるが、どこかふっくりした温かい情味が謡全体を包んでいる。この感じはちょうどあの英国のクリスティナ・ロゼッティ女史のそれと同じだ。閨秀の童謡詩人が皆無の今日、この調子で努力して頂きたいと思う」
みすヾはこの評に感激して、せっせと詩を書いて西条が選をする「童謡」に送った。彼女の誌はそれから毎号3,4編は載るようになり、西条の評価はますます高くなった。みすヾはたちまち若い投稿詩人たちの憧れの星になった。
大正13年の「童話」3月号に、みすヾの「大漁」という作品が載った。私の大好きな作品でもあるので、ここで西条八十の評とともに紹介しておこう。
大漁
朝焼け小焼だ
大漁だ
大羽鰮(いわし)の
大漁だ。
浜は祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰮のとむらい
するだろう
「金子みすヾ氏も今月は例によって光った作品を多数寄せられた。中でも『大漁』以下の推薦作は私の愛唱措かないものである。『大漁』にはアッと言わせるようなイマジネーションの飛躍がある」(大正13年3月号)
大正15年、みすヾは西条の推薦をうけて、「童謡詩人会」に入会をみとめられた。大正15年版童謡詩人会編「日本童謡集1926年版」には女流ではただ一人、みすヾの「お魚」と「大漁」の詩が選ばれて載った。
会員には西条八十の他、泉鏡花、北原白秋、島崎藤村、野口雨情、三木露風、若山牧水など。女流では与謝野晶子と金子みすヾの二人だけだった。このとき、金子みすヾは正式に童謡詩人として天下に認められたと言っていい。ときに、みすヾ23歳のときであった。もちろん最年少である。
小学校時代の恩師の大島ヒデ先生はみすヾを回想して、「友達とけんかをしたということを聞いたことも見たこともありませんでした。みんな金子さんを、何かしら心の中で尊敬していたように見えました。本当に金子さんは、優しくて、ていねいで、色白でふっくらとしたきれいな少女でした」と述べている。
私と小鳥と鈴と
私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のやうに、
地面(じべた)を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のやうに、
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。
小学校で一年後輩だった中村ツルエさんは、「学校や道で顔を合わせたりすると、ほっと笑うんです。その笑顔を見ると、こちらまで嬉しくなるようでした。みんな金子さんのことを憧れていました」と回想している。
たしかに、みすヾは小学校や女学校で先生や級友たちの信頼が厚く、成績も優秀だった。ずっと級長も務めている。しかしそんな優等生の彼女にも心底からさびしいときがあったのだろう。
みすヾは幼い頃から、周囲にやさしく、礼儀正しくて、いつも笑顔を絶やさなかった。しかし、決して人と争わない優しい人だっただけに、いろいろとものに感じて、深く考えることもあったのだろう。そしていつか彼女の心の奥深くで、生きることの根源的なさびしさのようなものが、ひそかに深められていたのかも知れない。
みすヾの一生を思うとき、私の目頭は熱くなる。そして西洋の詩人の「悩める貝殻にのみ、真珠はやどる」という月並みな一節を思い浮かべる。彼女はこの世の汚濁の中に花開いた、白い蓮の花ではないかと思ったりする。
みすヾの父、金子庄之助は彼女が3歳の時に死んでいる。そして2歳下の弟の正祐が叔母(母の妹)の婚家先に養子に遣られる。やがてその叔母も死んで、その後釜にみすヾ母、ミチが入ることになる。みすヾが16歳の時であった。
母が再婚した上村松蔵は下関で手広く書店を経営していた。女学校を卒業したみすヾも下関に出て、上村文英堂書店を手伝うことになる。先に養子に来ていた正祐とは姉弟の血縁関係だったが、松蔵の意向でこのことは正祐に知らされていなかった。
正祐は22歳のとき徴兵検査の書類を見て、自分が養子であることを知ったが、それでもまだ自分が誰の子か知らされずに、みすヾのことを姉だとは知らなかった。そして、みすヾと一つ屋根の下で暮らすうちに、彼女への思慕を募らせていく。正祐の夢はいずれ東京に出て作曲家になることだった。そして、みすヾの童謡に曲をつけて発表することを夢見ていた。
みすヾ自身も童謡詩を作り始めた自分の芸術的才能の最大の理解者であった正祐に、精神的同志愛のようなものを感じていた。こうした中で、みすヾの結婚話が持ち上がった。相手は店の番頭格の宮本という男だった。
松蔵はいずれ店は正祐に譲るものの、その間のつなぎとして、しばらくこの男に店を任せようと思っていた。そのための政略結婚であり、またみすヾと正祐の仲を引き裂くための意図もかくされていた。
この結婚をみすヾは望んでいなかった。相手の男はおよそ文学には縁のない、そして使用人の間でも評判の悪い陰ひなたのある、人格的にも尊敬の出来る相手ではなかった。しかし、家のため、正祐のためにと、母や養父から頼まれてむげにも断ることは出来ない。すでに23歳になっていた彼女は、当時とすればもう適齢期をはずれかかっていた。
正祐はこの結婚に大反対だった。みすヾを前にして、「父やお店の犠牲になって結婚することはない。好きな人がいるなら、その人と結婚すればよい」と涙ながらに訴えた。
これに対するみすヾの答えは、「仕方がないの」というものだった。さらなる正祐の追求に、「すきな人はいるのよ。その人は、黒い着物を着て、長い鎌を持った人なの」と答えた。そして、「テルちゃんと僕は姉弟ではないのかい」という正祐のせっぱつまった問いに、黙ってうなづいたという。
正祐はみすヾと別れてから、みすヾのいう「黒い着物を着て、長い鎌を持った人」が西洋の死に神だということに気付いた。そして、日記にこんなことを記した。
「テルちゃんの不可思議な心境には全くまいってしまった。手の届かぬほどの特異な境地で、あまりにいたましく、あまりに病的であるが、しかし、それと知りつつ、やっぱり手を束ねて見ていねばならぬほど特殊な個性の持ち主であることをいよいよ痛感した」(大正15年2月2日の日記)
大正15年2月17日、みすヾは宮本と結婚した。ところが、4月4日、正祐は置き手紙を措いて家出をする。正祐の家出をみすヾの夫との不和だと考えた養父の松蔵は宮本を激しく叱る。宮本の結婚後もやまない派手な女遊びが怒りに火を注いだ。
松蔵はみすヾを離婚させようとしたが、みすヾは自分がすでに妊娠していることを知り、夫と一緒に上山文英堂を出ることを選ぶ。こうして強引な政略結婚は、松蔵にとっても不如意な結果をもたらした。しかしこれは、その後みすヾが嘗めなければならなかった辛酸の、ほんの序の口に過ぎなかった。
みすヾにとって救いは、彼女を励ます正祐の書簡が次々と届いたことだろう。正祐はみすヾの天才を信じて疑わなかった。西条八十を別にすれば、彼はみすヾの詩の最大の理解者だった。昭和2年1月19日付きの彼の手紙の一部を紹介しよう。
「いかに私が毎月『愛誦』の金子みすヾの謡をかじりつくようにして読み、如何に感嘆し、如何に人生的意義を感じ、如何に・・・今では一々の象徴的意味、ある場合は作者の予期しないような意味を見出して、よろこび、かつ頭をさげる私です。たとえば『裏水の水たまり』にうつる無限の空の法悦味や、小さな蜂の中に見える神々の姿や、さては又、麦になれない黒んぼうに、私や、あなたの姿を見、『せめてけむりは空高く』のいささかの希望に涙ぐみ・・・・」
みすヾの詩がこのように大量に残されたのは、彼女が死に臨んで、弟の正祐に三冊のノートを託したおかげである。そこには、彼女が20歳から25歳までの間に作り続けた500編余りの詩が含まれていた。
みすヾが憧れの師、西条八十との対面をはたしたのは、昭和2年の夏、金子みすヾ24歳の時だった。八十から旅の途中下関駅に立ち寄るという電報が届いて、みすヾは駆けつけた。そのときの印象を八十は昭和6年9月号の「蝋人形」に、「下関の一夜―亡き金子みすヾの追憶」と題して書いている。
「夕暮れ下関駅に下りてみると、プラットホームにそれらしい影は一向見当たらなかった。時間を持たぬ私は懸命に構内をさがしまわった。ようやくそこの、ほの暗い一隅に、人目をはばかるように佇んでいる彼女を見出したのであったが、彼女は一見二十二三歳に見える女性でとりつくろわぬ蓬髪に普段着のまま、背には一二歳の我が子を背負っていた」
「作品においては英のクリスティナ・ロゼッティ女史に劣らぬ華やかな幻想を示していたこの若い詩人は、初印象においては、そこいらの裏町の小さな商店の内儀のようであった。しかし彼女の容貌は端麗で、その目は黒曜石のように深く輝いていた」
二人が会っていたのは、ほんの短時間だったようである。みすヾは「お目にかかりたさに、山を越えて参りました。これからまた、山を越えて家に戻ります」と言うだけで精一杯だった。「寡黙で、その輝く瞳のみがものを言った」と八十は記している。
「おそらく私はあの時彼女と言葉を交わした時間よりも、その背の嬰児の愛らしい頭を撫でていた時間の方が多かったであろう。かくして私たちは何事も語る暇もなく相別れた。連絡船に乗り移るとき、彼女は群衆の中でしばらく白いハンケチを振っていたが、まもなく姿は混雑の中に消え去った」
大正15年にみすヾは勧められるままに書店の番頭候補の宮本啓喜と結婚し、やがて女児をもうけたものの、夫婦の仲は生活は荒んでいた。夫は家庭を顧みず、遊郭通いにあけくれ、彼女は夫の放蕩によってもたらされた病気(淋病)の苦しみと戦っていた。そうしたなかで、師西条八十との対面は、ひととき心が浮くような出来事だったにちがいない。
逆境の中にあっても、みすヾは持ち前の優しさと、広い心で夫を愛しようとしていた。しかし、みすヾのこの思いは夫に伝わらなかった。夫はやがて彼女に詩作をすることを禁じ、投稿仲間との文通さえも禁じた。詩作をこころの支えにして、病と闘いながら子育てをしていた彼女にとって、このことの精神的打撃は大きかった。そしてさらに大きな打撃が、彼女におそいかかってきた。
金子みすヾが愛児を残して、自ら命を絶ったのは、西条八十との出会いをはたした3年後の、昭和5年3月10日のことだった。地元の防長新聞は次のように報じている。
「下関西南部町上山書籍店同居人大津郡仙崎町生まれ金子てる(28)は十日午後1時頃カルチモンを飲み自殺を遂げた。てるは同店員宮本某と内縁を結んでいたが捨てられたのを悲観したためである」
この新聞記事は間違いを犯している。彼女は28歳ではなく、26歳であった。そして、夫の宮本啓喜とは正式に結婚し、離婚話も正式に進んでいた。離婚に際して、彼女は娘を手元に引き取り、自分で育てたかったが、夫は彼女に対するいやがらせとしか思えないほど、娘を渡すよう再三要求した。
彼女は夫が娘を連れに来る前夜、睡眠薬を飲んで自殺した。自殺の原因は夫に捨てられたことが原因ではなく、夫に愛する娘を奪われることへの抵抗だった。
彼女の最後の詩は「きりぎりすの山登り」だという。みすヾを再発見し、「金子みすヾの生涯」を書いた矢崎節夫氏によれば、これは「童謡で書いた遺書」だという。
きりぎりすの山登り
きりぎつちょん、山登り
朝からとうから、山登り。
ヤ、ピントコ、ドッコイ、ピントコ、ナ。
山は朝日だ、野は朝露だ、
とても跳ねるぞ、元気だぞ。
ヤ、ピントコ、ドッコイ、ピントコ、ナ。
あの山、てっぺん、秋の空、
つめたく触るぞ、この髭に。
ヤ、ピントコ、ドッコイ、ピントコ、ナ。
一跳ね、跳ねれば、昨夜見た、
お星のもとへも、行かれるぞ。
ヤ、ピントコ、ドッコイ、ピントコ、ナ。
お日さま、遠いぞ、さァむいぞ、
あの山、あの山。まだとほい。
ヤ、ピントコ、ドッコイ、ピントコ、ナ。
見たよなこの花、白桔梗、
昨夜のお宿だ、おうや、おや。
ヤ、ドッコイ、つかれた、つかれた、ナ。
山は月夜だ、野は夜露、
露でものんで、寝ようかな。
アーア、アーア、あくびだ、ねむたい、ナ。
その夜、みすヾはいつもより時間をかけて、娘のふさえを風呂に入れた。そして、ふさえの体を抱きかかえるようにして洗いながら、たくさんの童謡を歌った。「テルさんは今夜はずいぶんと気持がいいのね。あんなにたくさん歌っている」と、居間にいた母のミチは松蔵に声をかけたという。
風呂から上がると、四人で桜もちを食べた。死を予感させるものはなにもなかったが、「今夜の月は、きれいだから、うれしいね」とみすヾは一度だけ口にしたという。ミチの覚えているみすヾの最後の言葉は、娘の寝顔を見つめて言った、「可愛い顔をして寝とるね」だったという。
みすヾはその短い一生を生まれ故郷の仙崎や下関界隈で過ごした。しかし、それでいて彼女の詩にはとてつもない宇宙的な広がりが感じられる。彼女が花を歌うとき、それはただの花ではなく、虫も又ただの虫ではなく、神々の息吹を宿した敬虔な存在となる。微少なものに宿る永遠の命を、その不思議なやさしさやさびしさを、彼女はいつも身近に、神秘的に感じていたのだろう。
不思議
私は不思議でたまらない、
黒い雲からふる雨が、
銀にひかつてゐることが。
私は不思議でたまらない、
青い桑の葉食べてゐる、
蠶が白くなることが。
私は不思議でたまらない、
たれもいぢらぬ夕顔が、
ひとりでぱらりと開くのが。
私は不思議でたまらない、
誰にきいても笑つてて、
あたりまへだ、といふことが。
脚本家の早坂暁さんが、金子みすヾについて、「彼女の視点は人間中心のものじゃない。ある時は雪になったり、ある時は鳥になって、ものを考える・・・だれにでもわかる易しい言葉で物の本質を言ってのけるのは難しいが、みすヾさんはそれが出来た人。本質がわからない人たちは、すぐ難しい言葉でごまかすから」と語っている。
みすヾが詩人として活躍したのは大正12年から昭和3年にかけて、わずか5年間ほどである。こうした短期間に、500編をこえる詩がうまれた。その背景には、大正時代が童謡の興隆期であり、黄金時代であったということがある。
たとえば、鈴木三重吉による「赤い鳥」の創刊は、みすヾ15歳の大正7年(1918年)であった。そして翌年には「金の船」、さらに「童話」が発刊され、北原白秋、野口雨情。西条八十がそれぞれの雑誌に自作を発表し、また投稿欄の選者として若き投稿詩人たちを育てた。
ちなみに、金子みすヾが師事した西条八十の代表作「かなりや」が「赤い鳥」に発表されたのは大正7年であった。西条はこの一作でたちまち人気の童謡詩人になった。私たちが今日なお愛唱してやまない童謡のほとんどは、この時代に生まれている。
北原白秋の代表作では、「あわて床屋」(大正8)「ゆりかごのうた」「ちんちん千鳥」(大正10)「砂山」(大正11)「からたちの花」(大正13)「ペチカ」「待ちぼうけ」(大正14)「この道」(大正15)など。
野口雨情の代表作では、「十五夜お月さん」(大正9)「赤い靴」「七つの子」「青い目の人形」(大正10)「しゃぼんだま」(大正11)「雨降りお月さん」「あの町この町」(大正14)など。
西条八十の代表作では、「かなりや」(大正7)「お山の大将」(大正9)「お月さん」(大正11)「肩たたき」(大正12)など。他の作者の童謡に「靴が鳴る」「背くらべ」「浜千鳥」(大正8)「叱られて」(大正9)「赤蜻蛉」「雀の学校」「てるてるぼうず」「どんぐりころころ」(大正10)「月の砂漠」「どこかで春が」「春よ来い」「夕焼け小焼け」「花嫁人形」(大正12)など。
最後の夜、みすヾは愛児を風呂に入れながら、たくさんの童謡を歌ってやったという。上にあげた童謡のほとんどを、みすヾは歌ったのではないだろうか。そのなかの一つ、西条八十の「かなりや」を引いておこう。
かなりや
唄を忘れた金糸雀は 後ろの山に棄てましょか
いえ いえ それはなりませぬ
唄を忘れた金糸雀は 背戸の小藪に埋(い)けましょか
いえ いえ それはなりませぬ
唄を忘れた金糸雀は 柳の鞭でぶちましょか
いえ いえ それはかわいそう
唄を忘れた金糸雀は 象牙の船に 銀の櫂
月夜の海に浮かべれば 忘れた唄をおもいだす
大正デモクラシーのうねり中で、文芸は一部のエリートの独占物とは見なされなくなってきた。だれもが自由に生き生きと自己の思想や感情を表現するすばらしさを実感することが可能になってきた。そうした新しい時代のなかで金子みすヾの詩才が花開いた。
しかも、彼女の詩は、はるかに時代を越えている。さらに深く自己と宇宙に沈潜して、その彼方にある広大な世界を予感させる。今日、彼女の詩が美しい星のように輝いてみえるのは、この神秘的なたましいの光のせいかもしれない。
みすヾが26歳の若さでこの世を去ったあと、日本は戦争の暗い時代を迎える。そして、その動乱の中で、世の中はゆとりを失い、童謡どころではなくなり、彼女の作品は散逸し、いつしか幻の童謡詩人と語り継がれるばかりになった。
ところが戦後になって、「日本童謡集」(与田準一編・岩波文庫)に載せられた《大漁》という作品に、一人の童謡詩人・矢崎節夫氏の目が釘付けになる。彼はそれから16年間にわたり、《大漁》の作家・金子みすゞを追い続けた。
没後50年余を経た1982年、矢崎さんはとうとう彼女の弟の上山正祐(雅輔)氏が東京で生存中であることをつきとめる。上山氏にとっても、それは奇跡的な出会いだった。彼は大切に保管していた姉の3冊の手帖を、《大漁》の詩の熱烈な愛好家だという矢崎氏に委ねた。こうして、矢崎氏の献身的な努力で、みすヾの残した512編の詩が、一気に甦ることになった。
土
こッつん こッつん
ぶたれる土は
よいはたけになって
よい麦生むよ。
朝からばんまで
ふまれる土は
よいみちになって
車を通すよ。
ぶたれぬ土は
ふまれぬ土は
いらない土か。
いえいえそれは
名のない草の
おやどをするよ。
土は踏まれたり、ぶたれたりすることで、よい畑になったり、道になる。しかし、踏まれたりぶたれたりしたことのないただの土にも、いいところがある。それは「名のない草」のお宿になることである。
すべての土が畑や道になったら、世の中はとても生産的になるだろう。しかし、そのような社会がしあわせかどうか。もし世の中が畑や道路ばかりになったら、名もない花はどこをお宿にすればいいのだろう。
金子みすヾの詩は、私たち名もない草草が、ほっと安らぎを覚えることのできる貴重な「心のお宿」なのかもしれない。矢崎節夫さんは、「みすヾコスモス」(JULA)という本のなかで、次のように書いている。
「みすヾの童謡は、日本人が初めて手に入れることができた、小さな人から大人まで三世代が共有できる文学宇宙です。読み手の人生観、宇宙観、宗教観の深まりによって、どんなにでも深く旅することができる、広大なコスモスです」
1984年JULA出版局から全集や選集が出版されると、みすゞの詩は多くの人々の心に深い感動をもたらし、彼女の詩を愛する人々の輪がまたたくうちに広がっていった。1996年4月からは、小学校国語教科書や道徳の副読本などで、全国の子どもたちがみすゞの詩に親しんでいるという。
童謡詩人の矢崎節夫さんが、「みすゞコスモス」という本のなかで、金子みすゞの「花のたましい」という詩を解説しながら、1995年1月17日の阪神・淡路大震災のときのエピソードを紹介している。
テレビのニュースキャスターが、避難している人々に、「何が今一番欲しいですか」と尋ねたところ、大人たちが口々に「水がほしい」「食べ物がほしい」「家がほしい」と言う中に、小学生がぽつんと「友達のいのち」と答えたそうである。
何よりも大切ないのち。しかし、それは一旦失われたら、もうふたたび帰ってはこない。もう二度と、彼の声を聞くこともできなければ、もう二度と彼の笑顔を見ることも、喧嘩をして仲直りをすることもできない。
死んだ後、人はどこへ行くのだろうか。いや人ばかりではない。牛や犬や猫や魚たち、あんなに美しく咲き誇り、私たちを楽しませてくれた花々たちのいのちはどこに行くのだろう。
花のたましい
散ったお花のたましいは、
み仏さまの花ぞのに、
ひとつ残らず生まれるの。
だって、お花はやさしくて、
おてんとさまが呼ぶときに、
ぱっとひらいて、ほほえんで、
蝶々にあまい蜜をやり、
人にゃ匂いをみなくれて、
風がおいでとよぶときに、
やはりすなおについてゆき、
なきがらさえも、ままごとの
御飯になってくれるから。
矢崎さんは同じ本の中で、「私はこすもすの花が大好きですが、数ある花の中でどうしてこすもすが好きなのかというと、きっと私をやっている元素、またはDNAのなかに、昔こすもすだった記憶があるからだと思います」と書いている。
親鸞も「歎異抄」の中で、「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」と愛弟子の唯円に語っている。また、道元は他の生き物を、「他己」と呼んでいるが、これも他者ももう一人の自己だという認識に違いない。
かんがえてみれば、私たちはその昔、だれしも魚だった。そして蛇やカエルやトカゲ、兎やネズミのような時代を経て、現在の人間に進化してきたのである。私たちのDNAのなかには、当然それらの生物だったときの痕跡は残っている。
さらに、私たちの肉体を作っている物質は常に新陳代謝をしていて、他のものと入れ替わっている。私の排出した二酸化炭素は数分後には隣の人の肺を通って、彼の体の一部になっている。また私の体にも、昨日まで海で泳いでいた魚たちの体にあった元素が入っているだろう。
私は「輪廻転生」の俗説を信じていないが、それでも、こうした現実世界のありさまそのものが「輪廻転生」ではないかと言われれば、この美しい物語に思わず同意したい気持になる。
2003年8月18日(月)、起床4:30.下関を6:45に発ち、長門に8:45についた。長門駅で自転車を借りて、仙崎まで15分ほどでついた。仙崎は私が好きな金子みすゞの故郷である。みすゞの棲んでいた街を歩き、彼女をしのんだ。「みすゞ記念館」には彼女の住んでいた家がそのまま再現されていた。みすゞの部屋は二階の4畳半でとおりに面していた。そこに腰を下ろし、しばしありし日の彼女をしのんだ。その後、菩提寺の彼女の墓を訪れた。
仙崎の海をながめて思い出す金子みすゞの大漁のうた
そのむかしみすゞの汲んだ井戸端に足を休めて青き空見る
井戸端でみすゞの歌を口ずさむ鈴と小鳥とそれから私
鈴と小鳥みんな違ってみんないいみすゞ通りは蜂もともだち
みすゞにはちっちゃな蜂もお魚もみんな神様この世のふしぎ
手を合わすみすゞの墓は苔むして父と弟彼女とねむる
濁りたる泥の中からはすが咲くみすゞのうたの美しきこと